黒木町日記

実家のある福岡県の黒木町。2010年2月1日をもって、
八女市に吸収され、名前も聞く機会もめっきり減りました。
ちなみに、管理人は東京都暮らしを経て長崎県在住です。
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反骨のジャーナリスト 福島菊次郎という時代の終わり

福島菊次郎さん
昨日、報道写真家の福島菊次郎さんが94歳で逝去されたとの報道が流れた。

私が出会ったメディア関係者の方多くが、彼の死を悼んで言葉を発されていた。

私も全くの報道に関連する人間でもないのだが、福島さんに強い感動を与えられた一人だ。

彼のことを強く意識するようになったのは、2013年2月11日

新宿シネマートの小さなスクリーンで、長谷川三郎監督の「ニッポンの嘘」という映画を見て以来だ。

私は、この映画に監督のサインをもらったが、ここから完全に菊次郎さんを追っかける。

翌月3月9日にはDAYS JAPANの9周年イベントで早速、
福島菊次郎さんの
講演をお目にかかる機会が得られた。

それでも、
居ても立ってもいられなくなり、翌月には山口県の柳井市に出向き、

再び映画の上映会が開催される会場に足を運び、その二次会にて、

福島さんとお話をするも、全く要領を得ない質問と、厳しい回答に

涙を流してしまったことを、プロデューサーの橋本さんに指摘されたほどである。

そのあたりから、徐々に福島さんの写真を見る機会も増えた。

東京都写真美術館に収蔵されている福島さんの作品集を見たり、

古書店にある写真集を取り寄せてみたり、唯一の弟子である

那須圭子さんの「報道写真家 福島菊次郎とゆく」を刊行前に予約注文した。

福島さんが写真家活動をほとんどやらなくなってから精魂込めて執筆された

「殺すな、殺されるな」というタイトルの3冊の著書ももちろん全て目を通した。

この本を読みながら、柳井に向かっていて、瀬戸内の海をみていると、

福島さんが目撃した子供たちがすぐそこに浮かんできそうで、二重に切なくもなった。

2013年9月14日には、府中市で開かれた講演会に再び参加して、

また福島さんの力強いお言葉を得ることができた。

当時は、秘密保護法が成立しようとする前夜で、自民党への危惧も高まっていた。

その時に、もはや時代は戦前だと話をされていた福島さんの言葉は未だに響いている。

少し月日が経過して、再び2014年12月27日に写真展と、講演会が再び多摩市で行われた。

これまでに類をみないような写真の展示数にまず驚かされた。

衝撃的な写真もさることながら、辛辣なキャプションにも見る目に強い影響を与えるものだった。

そして、講演ではアーサー・ビナードさんが聞き役となって、

戦争体験のこと、その後の日本社会のこと、そして現代のこと、将来のこと、

様々なことをお身体が決して優れない中、渾身の力でマイクを持たれた姿が焼き付いている。

私が福島菊次郎さんに出会ってから、お亡くなりになるまでに流れた月日は、

わずか2年半あまりだが、彼を知ってからの私の行動は、

それまでの歯止めが取れてしまったかのように、あまりにも急速になった気がしている。

前々から、衝動的に動く性格ではあったのだが、

今、ここで何をすべきかを強く考えるようになった。そして行動を起点にしようと強く誓った。

福島さんは、戦争に従軍したものの、人の命を奪うことなく、

自分の命を奪われることなく、自らの生まれ故郷に戻った。

戦争後しばらくして、従軍していた広島市に出向き、被爆者と出会ったことにより、

彼の人生は大きく変化し、国と対峙していた人々を追いかけるジャーナリストの道を進む。

それは、戦前に国家に対してモノが言えずに破局を招いた人々を反面教師にするかのようだった。

自衛隊の内部取材で、軍事秘密を暴露して、家が放火されたことも、

数々の取材拒否から、生計が成り立たないほど困窮し、離婚を余儀なくされても、

彼は信念を曲げずに、常に弱い人々の側に立って、強い権力にカメラを向け続けた。

それを応援するのは、お金持ちではなく、いつも貧乏人だった。

発行部数を誇る出版社は彼を相手にせず、テレビはほとんど無視、

いつも彼の作品を取り上げているのは、弱小雑誌社だったり、出版社だった。

共同通信が福島さんの写真版権を持っている現代に至っても、

彼の写真を掲載する新聞社の数は決して多くない。もちろん逝去報道すらも・・・。

だからなんだと、黄泉の国から福島菊次郎さんはおっしゃっているはずだ。

響く人に届く限り、私の作品は意味を持つし、それを受けて行動する人がいると。

私は、福島さんを巡っては心の底から湧きあがってくる感情が多すぎて、

まだまだ整理をできている状況ではないので、文章は支離滅裂である。

だから、何を言いたいのか、自分でも整理ができていない。

しかし、これだけははっきり言える。

福島菊次郎さんという時代はもう終わったのだと。反骨のジャーナリストの時代は。

94歳という高齢だし、寿命とみることもできるだろう。しかし、私はそうではないと思っている。

以下の宣言を忠実に実行しただけではないだろうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

もし憲法九条と自衛隊がなお同居する正邪の理非も無視した異常事態がこれ以上続くのなら、

僕はこの国の戦後を告発し続けたジャーナリストとしての良心的所在と尊厳を守るために、

これ以上この国で生きることを拒否することを宣言して、

この遺言臭「殺すな、殺されるな」の記述を終わる。

(殺すな殺されるな 第3部 あとがき終わり より)

ーーーーーーーーーーーーーーーー

けれども、世の中を生きている一人一人が、社会に対して疑問を持つ限り、

福島菊次郎さんが伝えたメッセージは意義あるものだと、私は一ファンとして言い切りたい。

福島さんがいつも好んで紹介していた、

政府が1946年に学童父兄に配布した「あたらしい憲法のはなし」からの抜粋を紹介して終わる。

いまやっと戦争はおわりました。

二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。

こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。

ただおそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。

戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。

だからこんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。

(略)

そこでこんどの憲法では、日本の国が、二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。

その一つは、兵隊も軍隊も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、

いっさい持たないということです。

これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦争の放棄といいます。

(略)

日本は正しいことを、ほかの国よりもさきに行ったのです。

世の中に、正しいことくらい強いものはありません。
 

JUGEMテーマ:政治全般〜国会・内閣・行政
福島菊次郎 | 01:36 | comments(0) | - | - | - |
抵抗の涯てに 〜写真家・福島菊次郎の"遺言"〜 (4)
勝てないとわかっていても斧を振り上げて抵抗し、
自分より大きな相手に向かっていくカマキリと、
戦う写真家福島さんの姿がどこかダブって見える、
そう福島さんに水を向けてみると。

(福島菊次郎さんの言葉)
----------------------------------------------------------
人間ちゅうのは本来、人間の生存の本能とはそういうものではないの。

自分の生存に危機を与えるものに対して、
もし逃げる人ばかりだったら人類ないわけじゃん。

逃げないで、勝ち負け考えないで
つっかっかって倒す奴がいるからさ

歴史と言うものはそうだと思う。僕は。
----------------------------------------------------------

私はこの動画を機会があるごとに繰り返し見ている。
それは、福島さんの言葉を聞くことで、自分自身がどんな国に生きているのか、
それを見つめ直し、明日を生きている礎にするためである。

JUGEMテーマ:第2次世界大戦
福島菊次郎 | 22:28 | comments(0) | - | - | - |
福島菊次郎さんとの再会in府中グリーンプラザ2013.9.14
2013年9月14日東京都府中市の府中グリーンプラザにおいて、
福島菊次郎さんの映画上映、写真展、講演会が開催されました。

私は仕事のため残念ながら、夜の講演会にしか参加できませんでした。
現在開催中の新聞博物館での写真展とは異なる構成の写真展が見られなかったのは、
残念でしたが、福島さんの力の入った言葉を聞けたのは幸せでした。

今一度、福島菊次郎さんについてプロフィールを簡単にご紹介します。

1921年 山口県下松市に生まれる。
1945年 二回目の召集で広島市内の部隊に配属されるも8月1日宮崎に出撃し、原爆を逃れる。
1946年 広島で被爆者の撮影を始める。(特に中心となったのは中村杉松さん)
1957年 山口県徳山市でカメラ店を始める。
1960年 「ピカドン ある原爆被災者の記録」により日本写真批判家特別賞受賞。
1961年 プロとして活動開始。妻と別れ三人の子どもを連れて上京。
1970年 自衛隊と兵器産業の内部に潜入取材し、写真集「迫る危機:自衛隊と兵器産業を告発する」刊行。
1982年 保守家する国とメディアに絶望し、瀬戸内海の無人島・片島で自給自足の生活を始める。
1988年 胃がんを患い島での生活を断念、250点の写真パネルにより「昭和天皇の戦争責任展」開催スタート。
1996年 最後の時を意識し始め、自らの棺桶を作り始める。(現在は自宅の本棚と化している)
1999年 山口県下関市に写真資料館を開館。(2000年8月閉館柳井市に写真美術館として移転)
2003年 著書「写らなかった戦後 ヒロシマの噓」刊行。
2007年 東京都お茶の水明治大学にて「遺言」講演会と写真展「戦争がはじまる」を開催。
2008年 東京都府中市にて講演会と写真展「遺言Part2」を開催。(2010年Part3開催)
2011年 唯一の弟子である那須圭子さんとともに福島など東日本大震災被災地を取材。
2012年 映画「ニッポンの噓 報道写真家福島菊次郎90歳」公開。
2013年 現在満92歳、山口県柳井市のアパートにて愛犬ロクと一人暮らし。

ここに挙げた表面的なことだけでは福島さんの表面的なものしか見えないので、
詳しくは、彼の著書である「写らなかった戦後」シリーズを読んでほしいです。
現在四作目を執筆中だそうです。

私が、福島菊次郎さんを知ったのは今年2月11日、
映画「ニッポンの噓」を新宿で鑑賞したその日です。
しかし、3月東京都文京区、4月柳井そして昨日府中とすでに三回もお顔を拝見しています。

どうしてこれまでに、福島さんに夢中になるのかは、様々な要素がありますが、
独立独歩、自らが思うところを貫く姿勢を維持し続けている点だと思っています。
私は、正直何をやりたいのかもわからないし、
何をやるべきかお手本にする人生の師匠と呼べる人にも出会っていませんでした。
しかし、福島菊次郎さんはその師匠と呼べる人に値するのではないかと勝手に考えています。

もちろん、国家や大企業など、彼自身の生命を脅かす存在に対峙する強さには惹かれますが、
常に自らが関わっている人々に対する愛情を持って接するその姿勢に敬意を表しています。
昨夜の講演会後の打ち上げの席でも、
写真パネルの保管を巡って意見対立する関係者を宥めていらっしゃいました。


秘密保護法案が審議入りする直前になったり、
集団的自衛権を巡る憲法解釈が大きく歪められる危機的な
政治状況の中において、国家権力と対峙し続けた福島菊次郎さんへの注目が高まるのは、
ある意味自然なことかもしれません。
しかしながら、国家と対峙する作業は非常に負荷がかかるし、
やればやるほど辞めたくなる圧力が増えます。

けれども、戦争の始まる前から戦争に突き進む過程、
始まってから負けるとわかっていてその悪化していく様を軍隊として体感し、
戦争は二度とすまいと誓ってから、再び軍隊が一般化する状態をすべて知っている福島さんは、
自らの怨念だけで、日本国家が抱えるウソについて国民に対して警鐘をならし続けています。

1980年代生まれの私は、戦争を身近なものとして感じることもなく、
日々の生活にさしたる困難も得ないままに、日々を安閑として生活してきました。
しかし、大正・昭和や幕末・明治などの歴史をちょっと学んでみると、
戦争はある日突然やってくるのではなく、水面下で進行し、
多くの人が気が付いた時には、
すでに事態は止める事ができない状態になっていることを知りました。

福島さんがメッセージを発する事ができる時間は、年齢のために、
そんなに長くない事は明らかです。
だからこそ、戦争を直接その目で見て来た彼が伝えるメッセージを伝えていく義務が、
彼を知ってしまった私には生まれたと感じています。

まだまだ福島さんのような命を張った覚悟はありませんし、勇気もありません。
しかし、私は自らで考え、世の中がおかしいと思ったことは自らの責任で、
おかしいではないかと声を上げ、行動していけるように、
少しずつ変化していきたいと決意しました。

それが、結局は日本という国を次の世代に伝えていく術であり、
先人が必死でこの国を作ってくれたことに対して感謝する唯一の道だと感じています。
JUGEMテーマ:第2次世界大戦
評価:
福島 菊次郎
現代人文社
¥ 1,995
(2003-07)
コメント:福島菊次郎さんがどうして報道写真家になったのか、その一部始終がここに収められています。この表紙の写真が物語る悲しさは、今にも通じる日本政府の無慈悲さを訴えています。

福島菊次郎 | 13:45 | comments(0) | - | - | - |
福島菊次郎さんと出会う旅〜柳井〜
もしかしたら、
福島さんとお会いできるのは、今回が最期かもしれない、
そう思って山口県柳井に赴きました。
ニッポンの嘘」の上映の後、福島さんは自身の足跡をたどり、
最後にこの国が戦前に戻りつつあるのを強く警告していました。
そして、
以下の1946年文部省配布の「新しい憲法のはなし」を
朗読させてトークショーは幕を閉じました。

------------------------
いまやっと戦争はおわりました。
二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。
こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。
何もありません。
ただ、おそろしい、かなしいことがおこっただけではありませんか。
戦争は人間をほろぼすことです。
世の中のよいものをこわすことです。
だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。
(中略)
そこでこんどの憲法では、日本の国が、
けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。
その一つは、兵隊も軍隊も飛行機も、
およそ戦争のためのものは、いっさいもたないということです。
これからさき日本には、
陸軍も海軍も空軍もないのです。
これを戦力の放棄といいます。
(中略)
日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。
世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
------------------------
これを読み聞きして、感動した青年は、67年後の日本の姿を垣間見て、溜息を吐いています。
「こんなはずではなかったと」

しかし、まだ戦争は起きていないではないか、憲法は変わっていないではないかと指摘されるでしょう。

しかし、政権与党が憲法改正に対して具体的な動きが顕著になり、
毎年働けない人の数が増え続け、生活保護を受けざるを得ない人がものすごく増加する環境で、
国の方針転換にNOを言えない人々の数は増える一方であります。
食えるようにしてくれるのが国という大樹の影になっているのですから。

「大樹に頼りすぎると国が崩壊する」と、
幼い頃から自分の命もいつ無くなるかわからない環境に育ち、
長く続いた戦乱の時代えを終わらせて、
260年の安定期を築いた徳川家康は実感して、みんなが自力で生きていける仕組みを作りました。

今こそ、必要なことは、一人一人が生きていける仕組みをどうやって作っていけるかを考えることです。

決して、憲法を改正して、現状の社会に合わせた統治機構を作らせてはいけません。
理想の仕組みに合わせて、社会を作り直さなければならないのです。一人一人の力によって。
JUGEMテーマ:第2次世界大戦
福島菊次郎 | 06:43 | comments(0) | - | - | - |
写らなかった戦後 「ヒロシマの嘘」福島菊次郎著読了。
昨年8月から全国で公開された『ニッポンの嘘』で福島菊次郎という
フォトジャーナリストに脚光が当たりました。私もその映画で彼を知りました。
映画の公式サイトの紹介文言にこうあります。

---------
ジャーナリスト界で「伝説」と語り継がれる報道写真家・福島菊次郎、90歳。
そのキャリアは敗戦直後、ヒロシマので撮影に始まり66年になる、
ピカドン、三里塚闘争、安保、東大安田講堂、水俣、ウーマンリブ、祝島--。
レンズを向けてきたのは激動の戦後・日本。
真実を伝えるためには手段を選ばない。
防衛庁を欺き、自衛隊と軍需産業内部に潜入取材して隠し撮り。
その写真を発表後、暴漢に襲われ家を放火される。
それでもシャッターを切り続けた指はカメラの形に沿うように湾曲している。
並々ならぬ執念、攻撃性を帯びた取材で生まれたのは、苦しみに悶える、
ある一家の主、機動隊に槍を向け怒りを叫ぶ若者、
不気味な兵器を前に笑顔を輝かせる男たちの姿だ。
25万枚以上の、圧倒的な真実から我々は、
権力に隠された「嘘っぱちの嘘っぱち」の日本を知ることになる。
冷静に時代を見つめ、この国に投げかけ続けた「疑問」を、今を生きる我々日本人に
「遺言」として伝えはじめた時、東日本大震災が発生。
福島第一原発事故を受け、菊次郎は真実を求め最後の現場に向かうのだった・・・。
ヒロシマからフクシマへ。
権力と戦い続けた老いた写真家は、今ここで「日本の伝説」となる。
---------
http://bitters.co.jp/nipponnouso/

ものすごく格好良いまとめ方ですが、福島さんを伝説にはできません。
何故ならば、彼が暴いてきた嘘を受け取って、行動しようとする人があまりにも少ないからです。
現状では、福島さんは安心して棺桶に突っ込むことすらできないと思います。
先般DAYS JAPAN主催のイベント聞いた福島さんの「戦争は続いている」という、
非常に力強く発せられた言葉が胸に刺さりました。


さて、タイトルの「ヒロシマの嘘」というこの本です。
福島菊次郎さんは、広島に軍隊の一員として配属されつつも、
原爆投下直前に九州の宮崎に転属になり、
原爆にて命を落とすことを免れたという十字架を背負い訪れた広島の地で、
プロの写真家としての生涯を歩むことになった原爆被爆者の憤りを、
この著書では如何なく著されています。

広島は、日清戦争時大本営が置かれるなど、
太平洋戦争以前から軍需関連機構が多数集積する場所として栄え、
戦艦大和など多数の戦艦も、広島市郊外の呉市にて建造されました。
アメリカなど戦争相手国から見れば格好の攻撃拠点となったわけです。
1945年8月6日広島市35万人の人々の頭上で原子爆弾が炸裂しました。
その場で多くの市民が犠牲になったわけですが、
それ以降さらに多くの人々が放射能による身体異常に生涯悩ませられることになります。
(現在も被爆二世、三世・・・とその連鎖は続いています。)

福島さんは、広島に足を踏み入れた当初、原爆ドームの写真を撮ることすらも、
情報統制下、なかなかシャッターを押せない状態だったそうです。
しかし、多くの被爆者と出会ううちに、この惨状を多くの人々に伝え、
戦争という過ちの追求を行うために、写真を取り雑誌に発表し展示会を開催します。

広島市での取材を経て、東京に進出しても、全国で被爆者を訪ね取材し、
また原爆や戦争について徹底的に国の「軍事国家への道」を戻る歩みを糾弾します。

福島さんが伝えるメッセージが力強いのは、国によって自らが生きることが
危機にさらされている人にきちんと向き合った上で、
おかしいことはおかしいと権力に対峙することにあります。

評論家然として、これはおかしいではないかと言うのはカンタンです。
しかし、福島さんは命を掛けて、92歳になっても年金も貰わずに、
ジャーナリストとしての姿勢を貫き通しています。

被爆者の取材では、人権団体などによって報道方針を批判され、
防衛庁の取材後、暴漢に襲われ、家に火をつけられたこともあり、
常に警察などの監視の目が耐えない状態であったそうです。

どんなに苦境であっても、戦争当時の命が消えそうな日々からは、
どれだけマシかわからないと文面でも何度も想いを残されています。
だからこそ、そんな想いを二度と後世の日本人に味わって欲しくない、
それが彼が今も発信し続ける原動力であります。

まだまだ想いばかり伝わってきて、この著を冷静に紹介できません。
この稿は再読して、もう少し客観的にまとめ直したいと思います。
JUGEMテーマ:第2次世界大戦
評価:
福島 菊次郎
現代人文社
¥ 1,995
(2003-07)
コメント:何度でも読む価値がある本です。戦争の匂いが色濃くなってきた日本においては。

福島菊次郎 | 13:08 | comments(0) | - | - | - |
孤独の涯てに〜写真家・福島菊次郎の"遺言"〜
福島さんが残したバトンを受け取ります。
自分に何ができるのか、全く自信はありませんが。
それが日本人として、独立国家を維持していくための使命であるならば。
私は、来週柳井市に福島さんを訪ねます。
その後、広島市に行き彼の原点を訪れたいと思っています。

MBS毎日放送2010年6月20日(日)放送
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
一人の老写真家がいる。福島菊次郎、89歳。
二等兵として敗戦を迎えた彼は、42歳のとき、家庭を捨てて上京し報道写真家になった。その後、反動化する世相に絶望して瀬戸内海の無人島で暮らしたこともあったが、いまは故郷、山口県内の安アパートの一室で、日本の戦後を問う「遺作」を執筆している。彼は言う___「戦後の日本は何一つ問題を解決していない」と。
ひとりで時代に抗ってきた写真家は何を伝えようとしているのか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

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3
4
5
6

編集後記
----------------
「映像」シリーズで福島菊次郎さんのことを取り上げるのは、2回目だ。
1997年1月に「孤り高く〜反骨の写真家・福島菊次郎」というタイトルで先輩ディレクターが取材して以来、実に12年ぶりのことだ。
取材のきっかけは2009年6月、福島さん本人からの取材依頼による。「戦後日本が人権を蔑ろにしてきた実態を、写真を武器に告発してきたが、憲法を変えることができるような法律が着々と準備されつつある今、もう一回しゃべっておきたいことがある」というものだった。
すぐさま、山口県柳井市にある六畳一間のアパートに福島さんを訪ねた。その後、断続的に取材を続け、放送までにはおよそ1年の歳月がかかった。
12年前と比べ、福島さんの「老い」は誰の目にも明らかだ。とくに視力の衰えはいかんともしがたく、写真家としては「引退」同然だ。そのかわり、自分がこれまでの取材・撮影の現場で見聞きし、感じたことを文字として刻み一代記の出版を目指していた。福島さんいわく「これが自分の遺書です」。
取材は「遺書」を作成する福島さんの日々を追いつつ、その節目、節目で語られる福島さんの言葉を丁寧に記録していくことに主眼を置いた。それが、福島さんのまぎれもない「遺言」であることを明確に意識しながら・・・。
取材中、一度だけ「写真家・福島菊次郎」の片鱗がうかがえるような出来事があった。過去に何度も通った米軍・岩国基地の一般開放にもう一度出かけたいと言う。それもカメラ持参で行くという。カメラを持つと福島さんは人が変わったように動きがすばやくなる。被写体を狙う眼光も鋭い。この動きが、この目の光が、戦後日本のさまざまな歪みを「可視化」させてきたのだと、改めて思った。
番組終了後、福島さんとはあまり連絡を取っていない。息災にされているだろうか。多分いまも「自分はあと1年の命」と言いながら、もうだいぶん長くなった「遺書」の続きを書いていることだろう。
----------------
JUGEMテーマ:第2次世界大戦
福島菊次郎 | 22:25 | comments(0) | - | - | - |

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