黒木町日記

実家のある福岡県の黒木町。2010年2月1日をもって、
八女市に吸収され、名前も聞く機会もめっきり減りました。
ちなみに、管理人は東京都暮らしを経て長崎県在住です。
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正法眼蔵 現成公案講話 毎田周一氏講演より vol.1
世の中には日々情報が散乱しています。
多くの一般庶民にとって細胞の仕組みがどうなろうと、
国の借金がどれだけ増えようと、日々の暮らしを変えようがありません。
実際に、古今東西の歴史でも、国が変わっても、一般庶民の暮らしが、
急激に変化したことは稀であり、徐々にしか変化は起きていません。
今、情報化社会といわれていますが、本当に日々の自らの暮らしに
彩りを添える情報がどの程度流れているのでしょうか。
案外、ネットにあまり載っていない先人の言葉をしっかりと、
味わうことの方が、世の中が進歩しようと有意義なことなのかもしれません。

毎田周一氏が講演された言葉をまとめた文章から、
私が、特に感銘を受けたものをこれからご紹介したいと思います。
以下、第一弾として「毎田周一撰集1」から以下引用いたします。
----------------------
(正法眼蔵 現成公案 第四節の解説より)
第四節:仏道をならふというは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心、
および他己の身心をして脱落せしむるなり。
悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。

自己をならふというは、自己をわすするなり。

その「自己をわするるなり」ということが、今のわたしにとって、
第四節の核心の一句のように思います。

つくづく、皆さんがお読みになるのを聞きながら味わっていて、
「自己をならふ」ということは、
簡単にいえば、自己を知るっていうことでしょうけれども、
自己を知るってことは、どういうことだというのに対して、
道元禅師は、自己を忘れることだ、と言われるのですね。

私、今、つくづく、皆さんのお読みになるのを聞きながら思っていたのですけれども、
こういうことを、いまだかつて言った人があるのだろうかと思うんです。
私、道元禅師の先にこの語が無く、道元禅師の後にこの語なし、
と言われるような一句じゃないかと思うのです。

皆さん、自己を知る、自分自身を知るということに対してですね、
それは、自分を忘れることだよ、
そういうふうに今まで誰かがお聞きになったことがありますか。

道元禅師に、えー「仏道でならふというは、自己をならふなり」。
仏道というのは真実のこの人間の自覚の道であると、自覚の教えであると、
こういうことを言われる。そんなら、その自覚・自己を知るっていうことは、
一体どんなことですかって聞くと、それは自分を忘れることだよ、こう答えられる。

なんか、まともに、そこに自己ってものを前にみて、
これはこういうものだって明らかにすることだって、
こう教えてくださるかと思えばねえ、ちょっと、しょい投げを喰わされるというか、
それとも相撲でいうと、うっちゃり、うっちゃられる感じがするのですね。

あなた、自己を知るっていう自覚が仏教だと言われると、
その自覚とはどういうことですかって、真正面からぶつかっていくとですね、
その相手をそっと受けてパッと土俵の外へ放り出してしまわれるような、
うっちゃりのような感じがします。

まあ、いわば、当てがはずれるような感じのことばです。
だけど、道元禅師は、これ以上にその的確に
自己を知るということを表現することはでいないというので、
忘れるという、誰でもが使う普通のことばですね。
その何でもないそのことばを使って、ふっとその真理を明らかにされる。

前人未到の一句というのは、むつかしい独特なことばを使って言われるかと思えば、
一年生でも学校へ入らない子どもだって「そんなこと忘れちゃったわ」というような、
そんな子どもさえ使うような、忘れる、ということばで、そのことが言い表されている。

ちらっと芭蕉のことなんか思い出されますが、
芭蕉がそれこそ前人未到の傑作句を残していますが、
そこに使われているということばは、
誰でもが平俗に普通に使っていることばにしたに過ぎないですね。

「しづかさや岩にしみいる蝉の声」と言われた場合に、
しづけさ、いわにしみいる、せみのこえ。普通に誰でも使うことばですね。
「荒海や佐渡によこたう天の川」どれだって、天の川だって、佐渡だって、
まあ横とうという表現がちょっと問題だと思うんですが、
横とうというところに、この荒海の句の
一番微妙なデリケートなところがあるんだと文学者が教えてくれますが、
「横たふ」というその語尾の変化が問題だといわれるんですけれども、
それにしても、横たわるという普通に言うことばをふっと使ってあるんですが、
それでいて、前人未到の一句となる。

だからむつかしいことを特別に言わなくとも、
一年生にでもわかるようなことをすっと言って、
しかしそこに究極の真理が言い表されるということがあるんだと思うのです。
私、おならいした先生は、前にも言ったかもしれませんが、
暁烏敏先生という方に仏教のことをお習いしたんですが、
私は、なまかじりの哲学をしばしば言いまわすので、
先生に笑われたんですけれども、先生はこう言われた。

「むつかしいことを言う人は、何もわかっていない人だ。
本当のことをわかっていない人が。
本当のことをわかっていれば、誰にでもわかるように言い表すことができる。」
こう言われた。今のここのところもそうです。

「自己をわするるなり」自分を忘れることだ。
誰にでもわかる普通のことばが使われて、しかし、本当のことがわかっていらっしゃる
道元禅師は、究極の真理を明らかにしておられる、
いうような感じを、私、今強く受けるのですが、ー

自分を忘れる、ということは、ほかの言葉でいえば、自己を知る、
というときに、自己というものを相手にしていては駄目だと言われる。
自分を相手にしない。蒋介石を相手にせず、
というようなことを言われたことがありますけれど、
相手にしない、つまり自分をいうものを相手にして、それは、自分は、
おれは、おれはこんなものだ、というて、つかまえてもって回ると、
かえって自分の本当の姿はわからない、というわけですね。

この前、皆さんにもそんなことを申し上げたかどうか忘れたが、
それこそ忘れてしまったですが、自分というものを持って回って、
自分の本当の姿はわかるかしらん。

鏡に自分の顔をうつしてみたらどうかってことを考えると、
例えば、変な話だが、
あの娘がニッコリ笑うあの笑顔が何とも言えんかわいらしい。
こう言ったとする。その女の子は、
私がにっこり笑うととてもいいって人がほめる。

そんなら私は、どんな顔して
にっこり笑うのかということを自分で見ようとするのですね。
例えば、鏡にうつしてみる。前に鏡を置いてにっこり笑うてみようとするけれども、
その時の顔は、自分の顔がどんな顔であるかということを見ようとしてる。

そういう顔がうつっているんだ。無心ににっこり笑った顔は鏡にはうつらない。
だから、鏡にうつして、人がほめるというその私の何とかスマイルですが、
かわいい笑顔というものをいくら見ようと思っても、
そこに、鏡にうつる顔ってものは、
鏡に自分の姿をうつそうと思って見ている顔しかうつっていないんですからね。

まあ、女の子でなく男にしてみれば、人は俺をいい男だってほめるとする。
そのいい男という俺はどんな顔しているかと、いくら鏡を見てもわからない。
それは、見ようとしているその人の顔がうつっているだけで、
他人がいい男だってほめてくれるその瞬間の
自分てものは鏡にうつして自分で見ることはできない。
それは、いい方の話だが、悪い方の話にしてもそうですね。

「あいつがおこるときは、何ともいえんむつかしい、いらやらしい顔しておこる」
こう人が言うとする。この俺がおこるときの顔はどんな顔だかと人に見せようとすると、
それは、うつしてみようとする顔しか表れないのです。

そういう意味では、皆さん、カメラをやられる方は大勢いらっしゃると思うが、
人を写すときには、さあ写しますぞって言って写した人の顔ってものは、
ちっともおもしろくないってことはご存知ですね。
このカメラで人を写すときは、スナップに限るので、
うっかりしているところをパッと横から知らん間に写すのでなければ、
その人は決して表れないのですね。
(続く)
JUGEMテーマ:仏教
毎田周一 | 01:14 | comments(0) | - | - | - |

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