熊本地震、その直後に福岡にいた私が感じたこと。
木曜日、土曜日と大きな地震が熊本や大分を襲った。
阪神淡路大震災に匹敵する地震動の影響を受けて、
沢山の人々が命を失い、安住の住処を奪われている。
私は、たまたま決まっていた予定通り、
土曜日早朝東京から福岡へのフライトを経由して、実家の八女市へ車を走らせた。
福岡市内から九州自動車道を経て、福岡県と大分県、熊本県境にある八女市までのドライブでは、
殆ど日常的な光景が広がっていた。
実家に帰り着いて、家族と顔を会わせるも、強震に遭遇したという会話以外には何の変化も感じなかった。
本来であれば、八女市で家族と合流し、宮崎に向かう予定になっていたが、
高速道路が使えずに熊本県大分県という隣接地域で地震が多発しているために、
予定をキャンセルして八女市にて日曜日までの時間を過ごすことになった。
東日本大震災当時、東京で暮らしていた私にとって、
震度3程度で多少揺れたなあと感じるものがあったとしても、
そこまで大きな恐怖を感じるものではなかった。
土曜日明け方まで断続的に続く地震のために夜にゆっくり眠れなかった家族は、
私が帰り着いて昼食を食べ終えると、寝息を立ててつかの間の昼寝を心地よい顔で満喫していた。
土曜日の夜には、一度大きな余震が起きたものの、
身体に不安を感じる程のものではなかったために、家族も私も心地よい朝を迎えることが出来た。
ただし、福岡の放送局から発信されるテレビは、
繰り返し地震に関するニュースを伝え、コマーシャルはACジャパンの番組が繰り返されている。
熊本市内で働く知人にSNSで状況を聞くと、職場は危険で戻ることが出来ず、
別の施設に避難して休みもなく仕事を続けているとの返事をもらう。
頻繁に走っていた九州新幹線は一切走っておらず、福岡県内なのに国道3号線は熊本ナンバーの車が次々に南下している。
普段ではあり得ない地震に遭遇し、
電話やLINEのメッセージでは心配そうにしていた家族も、離れて暮らす子供たちの前では、
普段通りに安心していて全くの日常を送っているように感じた。
目の前で何度も直視したことのある熊本城や阿蘇大橋、
幼い頃から何度も足を運んでいる阿蘇の町並みは、原形を全く留めていない程に変化してしまった。
当たり前と感じていることが、如何に薄氷の上に成り立っているのか、
考えさせる日々が少しずつ身の回りで起き始めた。
これから見慣れた熊本の景色を目の当たりにする機会があるだろう。
そして日常の生活を奪われてしまった人々に出会うことが間違いなくある。
その時に、改めて日々に接する事柄が如何に一期一会なのかということを実感として考えさせらるはずだ。
であるならば、まずは目の前にいる人々に、誠心誠意接していく他に自分が出来ることは存在しない。
自分自身を頼りにして下さる人々に、少しでも自らの働きをもって応えていく他に存在価値はない。
東日本大震災は遠くの土地に起きた事態で、私には何も出来なかった。
しかし、幼い頃1年に一度近く足を運んでいた阿蘇は私を育ててくれた土地である。
決して余所事ではない。
今は何をすることも出来ないけれど、事態が少し落ち着いたら、
せめて僅かながらでもこの身をお世話になった土地のために動かさなくてはいけない。
それが今の私が心から浮かんできている生命衝動である。
今は緊急救命事態であるが、今後状況が落ち着くにつれて、
復旧復興に励まなくてはならない非常に長い時期がやってくる。
その際に、何が私に出来るのか、それを頭にいれつつも、
まずは目の前にある仕事に一生懸命になり、自分が出来ることを少しでも磨いておきたい。
被害を受けている土地の人々に少しでもお役に立てる日々がいつかやってくることを信じて。
阪神淡路大震災に匹敵する地震動の影響を受けて、
沢山の人々が命を失い、安住の住処を奪われている。
私は、たまたま決まっていた予定通り、
土曜日早朝東京から福岡へのフライトを経由して、実家の八女市へ車を走らせた。
福岡市内から九州自動車道を経て、福岡県と大分県、熊本県境にある八女市までのドライブでは、
殆ど日常的な光景が広がっていた。
実家に帰り着いて、家族と顔を会わせるも、強震に遭遇したという会話以外には何の変化も感じなかった。
本来であれば、八女市で家族と合流し、宮崎に向かう予定になっていたが、
高速道路が使えずに熊本県大分県という隣接地域で地震が多発しているために、
予定をキャンセルして八女市にて日曜日までの時間を過ごすことになった。
東日本大震災当時、東京で暮らしていた私にとって、
震度3程度で多少揺れたなあと感じるものがあったとしても、
そこまで大きな恐怖を感じるものではなかった。
土曜日明け方まで断続的に続く地震のために夜にゆっくり眠れなかった家族は、
私が帰り着いて昼食を食べ終えると、寝息を立ててつかの間の昼寝を心地よい顔で満喫していた。
土曜日の夜には、一度大きな余震が起きたものの、
身体に不安を感じる程のものではなかったために、家族も私も心地よい朝を迎えることが出来た。
ただし、福岡の放送局から発信されるテレビは、
繰り返し地震に関するニュースを伝え、コマーシャルはACジャパンの番組が繰り返されている。
熊本市内で働く知人にSNSで状況を聞くと、職場は危険で戻ることが出来ず、
別の施設に避難して休みもなく仕事を続けているとの返事をもらう。
頻繁に走っていた九州新幹線は一切走っておらず、福岡県内なのに国道3号線は熊本ナンバーの車が次々に南下している。
普段ではあり得ない地震に遭遇し、
電話やLINEのメッセージでは心配そうにしていた家族も、離れて暮らす子供たちの前では、
普段通りに安心していて全くの日常を送っているように感じた。
目の前で何度も直視したことのある熊本城や阿蘇大橋、
幼い頃から何度も足を運んでいる阿蘇の町並みは、原形を全く留めていない程に変化してしまった。
当たり前と感じていることが、如何に薄氷の上に成り立っているのか、
考えさせる日々が少しずつ身の回りで起き始めた。
これから見慣れた熊本の景色を目の当たりにする機会があるだろう。
そして日常の生活を奪われてしまった人々に出会うことが間違いなくある。
その時に、改めて日々に接する事柄が如何に一期一会なのかということを実感として考えさせらるはずだ。
であるならば、まずは目の前にいる人々に、誠心誠意接していく他に自分が出来ることは存在しない。
自分自身を頼りにして下さる人々に、少しでも自らの働きをもって応えていく他に存在価値はない。
東日本大震災は遠くの土地に起きた事態で、私には何も出来なかった。
しかし、幼い頃1年に一度近く足を運んでいた阿蘇は私を育ててくれた土地である。
決して余所事ではない。
今は何をすることも出来ないけれど、事態が少し落ち着いたら、
せめて僅かながらでもこの身をお世話になった土地のために動かさなくてはいけない。
それが今の私が心から浮かんできている生命衝動である。
今は緊急救命事態であるが、今後状況が落ち着くにつれて、
復旧復興に励まなくてはならない非常に長い時期がやってくる。
その際に、何が私に出来るのか、それを頭にいれつつも、
まずは目の前にある仕事に一生懸命になり、自分が出来ることを少しでも磨いておきたい。
被害を受けている土地の人々に少しでもお役に立てる日々がいつかやってくることを信じて。

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