黒木町日記

実家のある福岡県の黒木町。2010年2月1日をもって、
八女市に吸収され、名前も聞く機会もめっきり減りました。
ちなみに、管理人は東京都暮らしを経て長崎県在住です。
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横井小楠 その2

圭室諦成著 人物叢書「横井小楠」吉川弘文館刊を参考にこの記事を綴ります。

私は、この著書を5年前に手にしていたがきちんと読めていませんでした。

この代表的な横井小楠氏の足跡をたどった著書は、圭室諦成氏の遺構です。

奥様のあとがきによれば、圭室氏は熊本に生まれ東大卒業後、史料編纂所に入所。

昭和20年春第二次大戦に応召、終戦10日目に郷土の史料を守ることが、

歴史家である自分の責務と考えられ、積極的に史料の蒐集・発掘に当たられました。

研究が進むにつれて肥後藩の政治姿勢の歪みに憤りを覚えるとともに、

黎明期日本の進路について高い政治理念をもっていた横井小楠氏に惹かれます。

横井小楠研究の過程や、西南戦争関係文書の発掘により、これまでの通説を批判し、

新しい見解を伝えてことによって、熊本・鹿児島から多くの非難が集まります。

圭室氏はこのような状況で、さらに横井小楠氏への情熱が募っていったようです。

この著書を通して感じられることは、横井小楠氏は、いかなる境遇に苛まれようと、

常に前向きであることを忘れなかったということです。

また、接する人に対しては基本的に良心を持てば変化するという姿勢を崩していません。

先般の記事で触れたように、横井氏は生まれた自藩からはなかなか認められませんでした。

しかしながら、そこに悔やむことなく、古来の歴史を学び、現実の世界現象を研究し、

今の時代に何が必要で、どのような行動を行うべきかと提案し続けました。

自らの恵まれない境遇を逆手にとって、自藩に限らず全国に師弟が増えていきます。

全国を巡遊するたびに、多くの志士と出会うとともに、師事する人物が寄ってきます。

特に越前藩では、そのトップである松平春嶽公は公私共々、横井氏を頼りにしていました。

そのことを独り占めにするのではなく、藩士にも積極的に横井小楠氏の教えを推奨します。

彼が幕末で全国的に騒乱の中にあって、越前の藩是として定めた以下の国是三論は、

当時どの藩でもなかなか明確にできていないものでありました。

それを藩主以下実行したからこそ、越前藩が幕末で大きな力を握ることにつながっています。

――――――(以下本文より引用)――――――

1.富国論

藩庁は財用を給して、士と民とを問わず遊手徒食するものなきよう心がけ、

生産を奨励してかれらを富ませることが急務である。

そしてその実効が挙がって藩庁の財政が豊かになった場合には、

その富を群黎に散じ、窮をすくい孤をいつくしみ、刑罰をはぶき、

税歛をうすうし、教ゆるに、孝悌の義をもってすべき。

2.強兵論

航海がひらけ四海みな隣国となった現在、

世界を相手に戦争する場合のあることを覚悟しなければならぬ。

したがってもはや海軍以外に強兵の術はない。

もし幕府が海軍を制定するならば、欧米諸国といえども恐れるに足らぬ。

しかし現在まだ幕府にそれだけの明がないが、きたるべき日に備えて

わが藩では、青少年を訓練しておくことが必要である。

3.士道論

文・武とはもとより武士の職分で、道をおさめる要領である。

ところが現在、文・武ともにいたずらに技術のすえにとらわれて、

文芸といい武術といっている。

学者は武をいやしみ、迂闊でしかも粗暴用いるに足らぬといい、

武人はまた学者を冷笑して、高慢でしかも柔弱、なにごとも堪えぬとあざわらい、

たがいに自己陶酔の偏見にとらわれている。

双方ともに文武本来の精神を見わすれているといわねばならない。

――――――――――――――――――――――

この越前藩という国のあり方の根底にあるのが、

身分にかかわらず、国のあり方をしっかりと考えた上で、

それぞれが本来できることを真心をもってやっていくということではないでしょうか。

横井小楠氏は、もともと攘夷派だったのですが、海外の事情を知るに及んで、

もはや開国できないと、国の財政は全く乏しくなり、

民衆の生活が成りたくなることを十分理解していました。

幕末終わりにあたっては、福井藩士はもちろんのこと、

長州藩、薩摩藩、幕府などかなり多くの志士と交流し、知人を作っていきました。

その結果、長らくに渡って熊本の自宅に引き籠っていながら世界の情勢を理解していました。

明治維新があり、それまで謹慎中のみだった彼は、参与に就任し、

やっと硝煙が薄くなってきた日本の行く末を描くことを求められました。

彼は、その問いに答えて、160年後の今でも遜色ない普遍的な日本国の作り方を提起しました。

だからこそ、これまでに多くの政治家が、
彼の提案を受け入れ、現代に至るまでそこから学び、
政治の軸にしようと提案を取り入れた仕組み作りを行いました。

現在も、国あり方が問われている局面です。

だからこそ、今の現象にとらわれずに国民が本当に生きやすい国を

どうやって作るかを考えて行動する人が求められています。

横井小楠氏が遺した文章から訴えるものは未だにまったく色褪せていません。
私はまだまだ学び始めたばかりです。
もう少し彼の生きざまに触れてみます。
 

JUGEMテーマ:幕末 歴史
評価:
圭室 諦成
吉川弘文館
---
(1988-11)
コメント:どうして世の中に必要不可欠な人材が社会に認めらず、現状を維持しようと汲々としている政治家が世の中に跋扈するのか、そんなことを圭室氏は横井小楠氏の足跡をたどることで明らかにしています。

横井小楠 | 01:39 | comments(0) | - | - | - |
横井小楠 その1 (三上一夫著 横井小楠-その思想と行動- 読了記)
私は、5年前大河ドラマ龍馬伝が放送された年、幕末について改めて学ぶために、
横井小楠という一人の人物に関する本を5〜6冊読んだ。
しかし彼の関する評価は、坂本龍馬や勝海舟などが認めた人物という域を超えられなかった気がする。
 
今回あるきっかけで、横井小楠氏について再び学んでみようと思い立ち、
まず吉川弘文館発行である以下の著書を読んでみた次第である。

三上一夫著「横井小楠 その思想と行動」歴史文化ライブラリー62

まずは本著にも至る所で引用されているが、あまりも有名な小楠氏の言葉を挙げたい。
1866年甥二人がアメリカ留学するに際して贈った送別の辞である。

「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くさば、
 何ぞ富国に止まらん、何ぞ強兵に止まらん、大義を四海に布かんのみ」

真心をもって富国強兵に励むことを説くがそれだけではなく、
国際的に強調して、全世界に普遍的なものを広めていく男子であってほしいとの願いである。

この三上氏著書では、以下のような流れで横井小楠氏の足跡を辿っている。
1.熊本藩での実学への取り組み、2.福井藩に招かれてから、
3.幕府の政治に参画してから、4.明治維新後新政府に参画して、
5.彼が非業に倒れてからの師弟の功績。

一つ一つ具体的に取り上げると、ブログの分量では収まりきれそうにないので、
その足跡については別途時間をかけて書きたい。

とにかく横井小楠という人物は、現代の21世紀にそのまま現れても、
政治家として活躍できただろう認識力が備わっていて、普遍的事実を俯瞰する力に優れていた。

信義に耐える気概をもって、理不尽な他国の要求には決して屈してはならない国の姿、
アメリカとロシアそして中国など、自らの利益を求めて軍事強国が覇権を争う姿、
政治が腐敗すれば自然に国民の暮らしを蔑ろにする政治が生まれてくる実態、
国を閉じるのではなく積極的に開いていくことによって貿易で利益を得る経済活動、
政治を私のものとするのではなく、天下は公共のものでなければならないという原則等々。

横井小楠氏は、まだ鎖国下・江戸幕府が存在している民の自由も存在しない160年前に、
こういったものを戒めているが、国民主権が実現したにもかかわらず、
未だに日本ではどれも満足に実現できていないのが実態である。


彼は、家庭的に将来の発展が望めない次男坊として生まれたが、
学力優秀で15歳で藩主に謁見できるほどであった。塾長に抜擢されるほどであったが、
物事の本質を理解し、あるべき政治の体制と現状のズレを批判する彼の姿は、
字面ばかりに熱心になり、現実の政治を変化させようとしない先輩から反発を買った。

江戸に学び、多くの実力者との交友を深めたが、自藩で仕事できる環境は与えられなかった。
しかし、諸藩を人物をめぐる旅に出るなかで、その高い見識が認められ、
多くの土地で指導を請われるが、最終的に藩全体から歓迎された福井藩に出向くことになる。
半年の福井藩訪問中、多くの実力者が彼に教えを請い、藩主松平春嶽氏からも一目を置かれる。

その後一旦熊本に帰り、不遇の時期を過ごしていたにもかかわらず、
黒船が浦賀に来航する半年前からその情報を入手できるほどのネットワークを持ち、
世界情勢には高いアンテナを張り巡らしていたことも、多くの有力者を惹きつける要因となった。

福井藩では人間教育の機運が高まり藩校の改革に取り組むためどうしても小楠氏の力を欲し、
藩主同士の頼み込みまでして、熊本から福井に横井小楠氏を招聘することに成功する。
福井では、普通の人間には認められていない釣りも認められ、他の教育者を上回る待遇で遇され、
休む間も無く講義を行う小楠氏であった。

彼は、人格形成、藩経済の立て直し、改革派・保守派の意見融合など、
福井藩の変革に対して、様々な知見を総動員して、多くの藩を動かす役人を支えた。
産業振興策や貿易振興により、藩庫を富ますことによって、幕府内の実力も高まっていった。

そして、幕政でも期待度が高く力を持っていた松平春嶽氏の懐刀として、
福井の横井小楠を飛び越えて、幕府変革の知恵袋にもなっていく。
数年前は藩の仕事も満足にできなかった彼が、最後の将軍となる一橋慶喜氏の賞賛を受けるまでになる。

そこまでの実力を備えたにもかかわらず彼を引き摺り下ろしたい地元の妨害は後を絶たず、
士道忘却事件というレッテルを貼られ、再び表舞台には出られないようになる。
そんな時期が、大政奉還という世の中の大変革期にあたり、
不遇の時代、沼山津の四時軒に逼塞している時期には、坂本龍馬が何度も足を運んでいる。
そのほかにも幕府の有力者、雄藩を引っ張る人間も何度も書状をやりとりしている。

そして、王政復古が成り、明治新政府が始動すると、小楠氏にも声がかかり、9名だけの参与に就く。
体調があまり優れないなかでも、新しい政体作りに尽力するが、
彼の実態をあまりよく知らない暗殺者につけ狙われ非業の最期を遂げる。

しかしながら、その非常に大きな視野を持った考え方は、熊本・福井など、
多くの師弟に受け継がれ、教育分野・政治分野・経済分野など、
多くの実力者を生み出す土壌となっていった。
横井小楠氏に学んだ人々同士が連携して行った仕事が多いのもその特徴と言える。


とさっと、彼について本著に従って流してみたが、あくまでもこれは表面的なものである。
彼が成し遂げた意義を明らかにしようとすれば、その守備範囲が広すぎるため、
具体的にテーマを絞って説明する必要があるだろう。
それで、今回の記事はまずはエピローグとしてこうった全容で終わりにしたい。

横井小楠氏を知ることは、現在を俯瞰することである。
私はそんな考えを持ったからこそ、これから改めて横井小楠氏の足跡を辿ってみることにした。

普遍的な考え方を維持していたからこそ、江戸幕府の有力者にも、
その体制を壊そうと励んでいた雄藩の実力者にもその価値を認められたのである。
現代もそういった人物が必要不可欠なのである。

世の中を変革するために闇雲に壊していたら、人民が混乱に陥るだけである。
維持すべきところは保ちつつ、変化させるものはそのメリットを前面に変化させる。
横井小楠氏が行った福井藩変革から、我々現代日本人が学ぶものは非常に多いはずだ。

JUGEMテーマ:幕末 歴史
評価:
三上 一夫
吉川弘文館
¥ 1,836
(1999-02)
コメント:小楠氏の行動に即して、どのような事実と考え方が、人々に受けれ入れらていったかを非常にわかりやすくまとめられた本である。論文調でない点も初心者にもお勧めできる。

横井小楠 | 00:36 | comments(2) | - | - | - |
「公」の思想家 横井小楠 堤克彦著 読了
堤 克彦氏は、日本史の高校の先生を勤められる傍らで、
横井小楠を研究されてきた、熊本在住の郷土史家です。
一度お会いしたいものです。

著書は、数多くの横井小楠が登場する手紙などの数々を
読み解くことで構成されている、「熊本」の横井小楠、研究誌といえます。

著書でも冒頭に触れられている通り、小楠といえば、
福井の松平春嶽藩主のブレーンとしての活躍が注目されますが、
越前藩での活躍は5年程度でほとんどの人生を故郷、
肥前、現在の熊本市内にて過ごしています。

小楠先生は、日本の歴史よりもどちらかといえば、
中国の歴史から考え方を習得することが大きかったそうです。
とくに、歴史を知って、それを現実の世の中に活かすことを
前提として、研鑽を積んだ方でした。
特に、その学問の基盤は、「堯舜三代の治道」と「孔子の教え」にありました。

堯舜について、著書から引用させていただきます。
-----------------------------------------------
小楠書翰には、「二典三謨」の言葉がよく出てきます。
「二典」とは『書経』の「堯典」「舜典」であり、『尚書』の
「大禹謨」「卑陶謨」「益稷」であります。
「堯典」には堯帝の人となりが記されています。
それによると、堯帝は、他人への深い思いやりとつつしみをもち、
その聡明さはよく知れわたっていました。

その上、優れた有徳さをさらに有徳にしようと努めました。
多くの部族の人々はお互いに睦みあい、百姓(多くの職業従事者)は
身分をわきまえ、多くの国々は一緒になって平和な大国を作りました。
そこで諸国民は大いに栄え、平和な暮らしができたのです。
また堯帝は一年や閏月を設けて、政治の基準とし、
四季の「農耕暦」を準備して、百工(種々の職業)を盛んにする方法を考えました。

年老いた堯帝は、後継者に舜を選びました。
舜は低い身分でしたが、頑固な父や口やかましい母によく仕え、
傲慢な弟もよくなだめていました。
堯帝は、舜を本格的に試練することにしました。
舜は、家庭をよくおさめ、五つの法典
(父は義理、母は慈悲、子は孝行、兄は友愛、弟は恭順の家庭道徳)を遵守しました。
また、多くの官吏たちや外国の使節たちもよく従いました。
その上、烈風や雷雨にも一向に動じませんでした。
そこで堯帝は、舜に帝位を勧めましたが断られてしまいました。
しかし、ついには舜は堯帝から「籌」(天文の計算書)を譲り受け、
「濬璣玉衝」(天文観測の道具)で七星の運行を観測し、暦を調整しました。

帝位に就いた舜帝は、各地の諸侯たちに巡守の礼を行ない、
全国の暦や度量衝を統一させ、法式や刑法を整備しました。
また舜帝は、広く諸侯の意見を採用し、その効果と功績に応じて表彰しました。
また十二州の境を明確にし、治山・治水に心を砕きました。

その後、舜帝は、十二州の地方長官や禹・垂・益・伯夷・竜・伯与・朱虎・熊罹などの
諸官に命じて、天功(天帝の事業)を助けさせました。
そして諸官の成績を調査して、天帝の事業がわからない愚かな者を退け、
よく理解した賢い者を昇進させましたので、諸事業はことごとく隆盛になりました。
しかし、やがて舜帝も死にました。
その後、帝位を譲り受けた禹帝は、「身を労し思いを焦がし、外に居ること十三年、
家門を過ぐれども入らず」(「十八史略」)に、陸行・水行・泥行・山行して、
為政・治山・治水・興業など公のために奔走しました。
-----------------------------------------------
(引用終わり)

このような公の心で政治を行った政治家をモデルにして、
私心で政治を行う現状の日本を憂い、公心で政治を行うべき時期に
変化させなければならないというのが、小楠の強い思いになりました。

このために、小楠塾、四時軒という塾を作り、現実の生活に即した学問を
学ぶ場所を作り、若者を教育しました。
結果として、この場所に越前藩士が訪れ、全国の諸藩を旅した結果として、
横井小楠は越前藩に客師として迎え入れられるわけですが、
その生活の場所が変わっても、常に民衆の生活を健やかなものにするには
いかなる政治を行うかを貫いて、様々な人々を説き続けました。

その間には、自らが起した行動によって、批判され、冷遇され、
生活が困窮した事態も多々ありました。
しかし、当時尊皇攘夷派が世の中のメインになる中でも、
外国の優れた文化・経済・技術を取り入れるべきだと考えた、
その開明的な考え方に、多くの人々が賛同し、様々な支援を行いました。


勝海舟、大久保一翁、坂本龍馬、松平春嶽、吉田松陰、
三岡八郎、など本当に歴史の表舞台に立っていた人々との
交流を図って、相互に影響を与え合った人であり続けました。

一つ前の弊ブログに取り上げさせていただいた、
そのメッセージが、小楠先生の真骨頂だと思います。

私も、熊本市の四時軒を訪れまして、小楠記念館で数々の
小楠先生のメッセージを拝見しましたが、かなりの言葉は
今の現在日本にも通用するものばかりでした。

私心を捨て、公心を持つ。

言葉にすると本当に簡単なことですが、
それを行うには、本当に強い志が必要になります。

そして、それを継続するためには、常に一番弱い人々の
気持ちを知ろうとする行動がなければ、人心を得ることはできません。
横井小楠先生から学ぶべきことは、
堤先生も指摘されているとおり、21世紀の日本でも本当に多岐に及ぶと感じました。

JUGEMテーマ:幕末 歴史
評価:
堤 克彦
熊本出版文化会館
¥ 1,575
(2009-09)
コメント:一定の小楠知識がない方にはちょっと読みにくい本かもしれません。横井小楠と勝海舟の手紙のやり取りも収録されています。

横井小楠 | 21:08 | comments(2) | - | - | - |
送左大二姪洋行(アメリカへ立つ若者二人へ)横井小楠
堯舜孔子の道を明らかにし、

西洋器械の術をつくす。

何ぞ富国に止まらん、何ぞ強兵に止まらん、

大義を四海に布かんのみ。

心に逆らうこと有るも人をとがむこと勿れ、

人をとがむれば徳を損ず。

為さんと欲する所有るも心に正にする勿れ、

心を正にすれば事を破る。

君子の道は身をおさむるに有り。




公議主義をたてまえとし、武器や爆弾をもって殺戮や戦争を
行うためではなく、大義、すなわち普遍の理に貫かれた
豊かにして平和な世界の建設こそ、小楠とその弟子たちによる
熊本実学派の目指すところであった。
 
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横井小楠 | 19:56 | comments(1) | - | - | - |

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