黒木町日記

実家のある福岡県の黒木町。2010年2月1日をもって、
八女市に吸収され、名前も聞く機会もめっきり減りました。
ちなみに、管理人は東京都暮らしを経て長崎県在住です。
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憲政の価値 菊竹六皷(木村栄文 記者ありきより)
 1932年5月21日付福岡日々新聞論説「憲政の価値」
菊竹 六皷 (文章は「記者ありき 木村栄文著より引用)
憲政の価値
いかなる恩恵も、なれることの久しきにわたるにしたがって有難味を感ぜなくなる。
徳沢の性質程度が大きければ大きいほど、えて感謝の心薄らぐのが人間の習性である。
その恩恵の中絶し、その徳沢の休止するにおよんで、
はじめて愕然として本然の我にかえり、過去のそれを懐かしくありがたく思うのが、
これまた人間の通癖である。
時局多端政界惑乱の際、いまさら人間性のいかんを穿鑿するのも適しくないが、
ただ方今の世相人心はいささか、かかる閑是非を想起するの必要がないではない。
今日の場合、挙国一致内閣非か、単独政党内閣是か、それは今しばらく論外とする。
問題は我が国民は今一度、厳正にふりかえって、
まともに立憲政治の真義を再吟味するの必要があることだ。
もちろん我が九千万の国民は一人たりとも、
明治大帝の天地神明に誓わせ給うた五ヶ条の御誓文や、
それに発源する帝国憲法の嚴乎たる大精神を疑うものはない。
その炳乎日星のごとき大旨議をかりそめにも争うものはありえない。
この点において御誓文や憲法は、まさに文字どおり千歳不麿の大典であり、
永久不滅の金字塔である。
ただ近年、我が社会の一部においては、一種の政治的社会的な狂瀾怒涛が、
しきりに起伏しつつある。
その淵源は我が民族の国家不安や経済不安、
その他種々の事情に尋ねるをうるであろう。
しかし、その中のもっともあらわな一つの原因は、
立憲政治に対する国民的信念の喪失、
少くもその動揺に根ざすものであることは否むことができない。
この立憲政治に対する国民的信念の動揺、
欠乏はなにによって来たったか。
論者はただちに政党の不信、選挙界の腐敗、議会の堕落を数うるに躊躇しない。
政党の一大改革を要すること、選挙界の一大廊清を必要とすること、
議会の一大向上を期せねばならぬことは、
現に我々の眼前に呈された火のごとき客観的事実である。
しかし、これあるがゆえに立憲政治を捨てて、他の政治様式、
ことに近時流行物たるいわゆるファッショ政治様式の礼讚に走らんとするがごときは、
思わざるものはなはだしきものであり、
いやしくも思慮ある国民の、
断じてとるべからざる態度であると言わなければならぬ。
立憲政治の生命は何か。一言にして言えば、
国民の自由尊重であり、その権利公認である。
いわゆる憲法上の三大自由や八大権利など、
くがくだしく詮議だてするを要しない。
ただ、憲法において保証せられた人民の自由制度、
近代国家の原理となっている自由制度寛容の精神、
これは実に立憲政治の持つもっとも根本的な意義であり、最上第一の価値である。
自由は実に人間生命のもっとも尊い要素であり、
否、生命はそのものであるといえる。
よし立憲政治に百千の弊害ありとしても、
この利益は他の何ものにもかえがたき、またかえるを許さない宝である。
利弊は物の両面である。ただ利弊いずれが大なるかが問題であるにすぎない。
立憲政治に伴う許多の弊害は、断然これを矯正すべし、
その宝物的真生命は、あくまでこれを擁護しなければならぬ。
たまたまその局部に欠陥あるのゆえをもって、
根本の価値を否定することは、きわめて不合理であり、幼稚な考えかたである。
ファッショとは何か、種々の解説、解釈があるにしても、
その究極するところは、要するに独裁の政治、抑圧の政治、
強力の政治であるというに帰する。
その反面を言えば、人民自由の否定であり、寛容なる精神の破滅である。
種々の言辞や説明をもって粉飾するにしても、
正体は分明、ファッショ政治の真髄は断じてこの範囲を出づるものではない。
これ、あに我が国の社会を挙げて、
憲法発布以前の状態に引戻さんとするの企てではないか。
官僚専制、閥族専制、
さらにさかのぼっては封建抑圧の政治に逆転せしむることを意味するのではないか。
今の政治政党に愛想をつかしたことの一点から、
反動的に、一も二もなくファッショなるものに
万一の期待をかけようとするものがあるならば、
それはこの上もなき無思慮分別な、
政治常識を欠如したものと言わなければならぬ。
真に国家の隆昌と人民の幸福を念とするものの再思三省を要するところである。
木村栄文 | 01:07 | comments(0) | - | - | - |
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