黒木町日記

実家のある福岡県の黒木町。2010年2月1日をもって、
八女市に吸収され、名前も聞く機会もめっきり減りました。
ちなみに、管理人は東京都暮らしを経て長崎県在住です。
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平野國臣 vol.1
平野國臣の名を知る平成25年に生きる人は非常に少ないものであろう。
多くの人が知っている人を挙げて紹介すると、「西郷隆盛の命の恩人」である。

幕末に多くの志士の活動の素地を築いた彼が歴史上に登場しないのは何故なのか。
考えられる理由は多々存在するが、幕末の歴史を全て知りうる訳ではないが、
語られるべき人物であると私は断言する。

彼は、福岡に生まれ、福岡を拠点として全国の志士を駆り立て、
1828年から1864年の幕末激動期36年間を走り抜けた。

私のような志士活動も行わない、歴史について原著を読んだことも無い人間が、
平野國臣を語るのは恐れ多いが、産業がなくなりつつあり、
日本を取り巻く環境も一変し、社会的な変化が求められるている時代だからこそ、
日本人について真剣に考えて行動した、彼を追う意義があると私は考える。

以下、小河扶希子著 西日本人物誌17「平野國臣」を底本として、
彼について考えてみたい。
もちろん、平野國臣の代表的研究史料である、昭和4年発行の
春山育次郎著「平野國臣伝」を前提としていることを触れておきたい。
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平野國臣は30歳のときに彼自身が想いを込めて解明した名前である。
彼は、1828年(文政十一年)福岡市地行の福岡藩武術師範である
平野吉郎左衛門能栄の次男として生まれ、「巳之吉」と名付けられた。
しかしながら、福岡藩の養嗣子が美濃守と称されていて、
医者の助言によって「乙吉」と記名することになった。

父は足軽であったが、杖術・捕術・縄術を極め、武芸指南役になり、
数十年に渡って千人以上の藩士門人を排出した武芸師範であった。
また、福岡江戸双方で教授したため、行き来は百回を超えた。
一方、母は酔って出店の店主を連れて帰宅した父親に対して、
その夜は素通ししても、翌朝しっかりと意見し、
その行動を戒めた賢き母であり妻であったとのこと。

そして、その母は、乙吉に対して、寝床で子守唄代わりに、
百人一首をあやしていたため、彼は5歳で大半を暗唱できるようになっていた。

乙吉は11歳のころ、父母のもとを離れ、雄と改名し、
鉄砲大頭大音権左衛門の家へ小坊主として奉公した。
そこで認められ14歳のころ、鉄砲頭小金丸彦六の養嗣子となった。

1845年(弘化二年)18歳の春、福岡藩に普請方手附として仕官した。
そして太宰府天満宮の楼門修理にあたることになる。
わずか4ヶ月後、同年11月江戸藩邸勤務となり、福岡を出立する。
(続く)
JUGEMテーマ:幕末 歴史
平野國臣 | 22:05 | comments(0) | - | - | - |
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